岩田守弘さんの、苦しいのが好きだという感覚

岩田守弘さん、バレーをやっている人にとっては偉大な人に違いない。
彼は、長くロシアのボリショイバレーの第一ソリストとして活躍した人だ。
外国人として初めてボリショイバレーに入り、日本人のソリストは後にも先にも彼だけしかいないのだ。

彼の最大の弱みは、166cmという背の低さだ。
ロシア人のダンサーと比べると圧倒的に低いのだ。体格的に劣るというのは致命的だ。
そのために、花形の主役を踊ることはない。

 

しかし彼は、こう言う。
「この体は与えてもらった体。それを利用して他の人にないことをやる。それが僕が僕である価値ではないですか?」

こう考えると、弱みは最大の強みとなる。

彼はその身の軽さを利用して、高くそして正確に飛ぶことで、ゆるぎないひとつのポジションを獲得した。

 

道化などのキャラクターダンサーととして圧倒的な存在感を放ったのだ。

辛い時に支えてくれたのは、家族、親、奥さん、友達。
一緒にいてくれたり、悪口を言ったり、愚痴を聞いてくれたり。

 

芸術家の本能として苦しさを求める時ってあるんですか?という問に彼はこう答えている。

 

苦しければ苦しいほどいい
そうするとやっぱりあの
磨かれていくんじゃないですか?外からも中からも

 

僕が思うに

人間って
いい時が重なっている時って
結果が出るけど成長していないと思う。

悪い時に絶対成長している。
いいことばかりだと心が遊んじゃうんですね。

岩田守弘さんは自分に常に言い聞かせている言葉がある。

それはのぼせあがるな、ということ。

のぼせあがるな

自分で完璧だぜって言った時点で自己流になってしまっている。
自己流になってはいけない

絶対にのぼせあがるな

プロのダンサーとして、プロフェッショナルとは?という問いに彼はこう答えている。

冷たい目で見られても
舞台がどんなでも
寒かろうが穴があいていようが
どんな時でも
どんな場所でも
まわりがどんなでも
自分のすることをしっかりできる人です。

彼は41歳でボリショイバレー団を引退した。17年間の長いダンサー生活だった。そしてそのすべてをボリショイバレー団で過ごしたのだ。しかも第一ソリストとして。
引退後、シベリアのウラン・ウデの国立ブリヤートオペラ・バレエ団の芸術監督に就任した。

岩田守弘(いわたもりひろ)さんってこんな人

生年月日 1970年10月6日
出身地 神奈川県横浜市
学歴  1979年に岩田バレエスクール 1988年ソビエトバレエインスティテュート 1990年1月~国立モスクワ・バレエ・アカデミー

バレーダンサーだった父の影響で9歳でバレーを始めた。

17歳で、全日本バレーコンクールジュニア部門で優勝。
名門モスクワバレー学校の研修生となった。
ソビエト崩壊後の混乱期に、必死にバレーに打ち込む
身体の小ささを技術で補うため遅くまで練習した。

1993モスクワバレー国際大会で金賞

そして、ボリショイの門をたたいたのだ。だが、外国人はなかなか受け入れてもらえなかった。
1年後、社会主義の崩壊後ボリショイバレー団のトップが30年振りに交代となったのだ。
岩田氏が優勝した時の審査委員長を務めた人がトップとなったことで、岩田氏は外国人として初めての入団を許された。
しかし、入団はしたものの、ダンサーとしては認めてもらえず役ももらえない日々が続いた。

自分ができるのに踊る場がないのは苦しい。それでも彼は練習に打ち込み、人の3倍ものレッスンをして技術を磨いていった。

入団から4年後、ボリショイバレー団はとても大きな劇をやることになった。それはファラオの娘である。
そこで、彼は直接芸術監督に直訴、役が欲しいと頼み込む。しかしもらえたのは学生でもできる猿の役だった。
でも彼は、それを見事に演じ、生き生きとして猿だったとメディアから絶賛される。

そしてそれから1年後、白鳥の湖のリメイク版上演にて、初めて道化の役に抜擢されたのだった。ロシアに渡って11年後のことだった。

そして第一ソリストとしてボリショイバレー団になくてはならない存在となっていった。
41歳で、ついに引退講演。
その後、ロシア・東シベリアのブリヤート共和国、ブリヤート国立劇場のバレエ団・芸術監督として活躍している。

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